12/13/2017

エッセイ完全版できました。

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サンフランシスコ路上観察』 Tomoe Nakamura著

エッセイ完全版できました。

よかったら読んでくださいね〜。

12/06/2017

現地の人と何語で話すか?

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現地の人と何語で話すか?


 言葉は大事だ。大抵の日本に住んでいる外国人は、日本に馴染むために日本語で話す。同じ民族の人と集まって話す時は、母国語で話す場合もある。英語圏の人は敢えて覚えようとしない人もいるが住んでる場合はある程度話すようにしている人が多いと思う。それと同じで、アメリカに行けば英語が流暢でないと、アメリカ社会に入れてもらえない感じがある。特に、日本人は、英語が話せないまま海外旅行したりする場合があり、あまり話せないのを他の国の人も知っているので、日本人とわかるとからかわれたりもする。旅行者のヨーロッパ人もからかっていたし、中国系の学生も通学のバスの中で、同級生?の日本人のことをからかっていた。「英語教育をする前に日本語をちゃんと教育したら」、という人がいる。確かに日本にいたら、そんなに英語で苦労することはないが、やはり海外にいると英語が出来ないとかなり見下げられるのが現実だ。
 英会話学校時代に、日本人ばかりがつるんでいた時もあったが、私はあまり日本人とは話さないようにしていた。バブルが過ぎて日本が不景気になると、日本人留学生の数もめっきり減ってしまったが、そういう時の日本人の生徒は私が話しかけても話したがらなそうにしていた。如実に白人や黒人男性を狙って友達になろうとする女子もいたが、私は気があう人と友達になる感じで、人種、年齢関係なく友達になって話した。親しくしてくれるフランス系の先生がいて、会うたびに、いろいろとアドバイスをくれたり、おごってくれたり、家に招いてくれたりした。でも大抵はアジア系ならアジア系同士仲良くなるか、白人でもアジアに興味のある人と仲良くなることが多いのは事実で、完璧に相入れるのは難しいなあ、と思った。もちろん英語を話せば何人だろうが気にしない人もいる。ただ、見えないカーストのようなものがあり、「留学生」とか「アジア人」とかの壁はあるだろう。それを分かった上で、生き抜いていかないといけない社会だな、と思った。それはアメリカだけでなく、どこの国でも何かしらあるだろう。
 当然留学するには、英語は死ぬほど勉強したが、サンフランシスコで生活するのに話すのは、英語だけとは限らない。もちろん買い物や銀行や病院などでは英語だが、友達がメキシコ人だったり、韓国人だったり、中国系だったりする時は、それぞれの母国語も知っておいたほうが入っていきやすい。エルサルバドル人など、人種によって、同じ人種同士なのに人前では英語を話す人たちもいたり、メキシコ系の店に行くと、メキシコ系スペイン語でレジの女性たちが、「中国人かな?」とか言うので「ソイ・デ・ハポネサ」(日本人です。)とスペイン語で返してやった時があったら、(わかっていたのか?)というそぶりをして黙っていた。そういう時は、もっとスペイン語が出来たらスペイン語で買い物が出来るのにと思った。
 アメリカ人に中国人に間違われるのはよくある。アメリカ人はフレンドリーで、よく「ハーイ」と知らない人同士でも挨拶をする。日本にいるとそれがないので、そういう文化が好きだ。ただ、バスに乗っていたり、街を歩いていても、「ニーハオ」と挨拶をされるときがあり、「I am not a Chinese.」(中国人ではないです。)と返事する。「じゃあなんだい?」というから「日本人です。」と返事をする。サンフランシスコはアメリカ最大の華僑のコミュニティがあり、今や市長も華僑で、サンフランシスコの民族比人口では白人を抜いてラテン系と華僑が圧倒的に多い。それが嫌で市街に引っ越す白人もいると聞いた。そのため、学校で第二外国語で中国語を取る人もいるので、中国人と思うと話しかけてみたくなるのだろう。
 反対に、中国人に見えるというだけで、襲われかけた時もあった。モールのエスカレーターを降りているだけで、とにかく、「嫌いだ!、嫌いだ!」、といっていきなり出てきて襲ってきた。とにかく怖かったので、「中国人じゃない!中国人じゃない!追いかけてくると警察呼ぶよ。」と言いながら逃げた。その人が何か中国人と何かあったのかもしれないが、それにしてもいきなりでびっくりした。中国人のチャイナタウンのバスのマナーが悪いとか、白人によっては評判が悪く、ひどく嫌う人もいて、白人からしたら、日本人や韓国人は見分けがつかないらしく、とばっちりを食うのだ。

 逆に英語が出来なければこんなにいろんなことを考えなくていいのかもしれないし、わかってても知らないふりをしていた方がいい時もあるかもしれない。フィリピン系の人でも親切に話してくれる人もいるし、イケズしたり、買い物をした時にぼられたこともあった。なぜボラれたかがわかったかというと、ハウスシェアーしていたフィリピン系の友達が教えてくれた店で、買い物をして、値段を言うと、彼女がいつも買っていた値段と違ったから、「あんた、それ、ぼられたよ」と(You were cheated.) 言われたからだ。そこはフィリピン系の人が多い地域だったので、日本人と見るとボッタのだろうが、買った食べ物は美味しかったが、怖くなって二度と行かなかった。多民族で、どの人が何人かで対処や話す態度を変えていかないといけないので、日本のようにシンプルに日本語で、とか英語で、とはいかないのがサンフランシスコの奥深いところだ。


11/29/2017

本屋の話

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本屋の話

 本屋も最近では多少減ったが、サンフランシスコにはシティーライツ・ブックストアやグリーンアップルブックストアを始め様々な本屋があり、ある意味観光名所になっている。最近は、雑貨屋やギャラリーに本を置いている店もある。本もデザインの一部のようになっていて、シンプルな店内にオシャレなデザイン本や写真集などが置いてある。サンフランシスコにあるコロニクルブックという出版社は有名で、絵本やアート関係の本、料理本、サンフランシスコ関連の本などをたくさん出している。出版社だけでなく、モールの中に本屋もあり、カフェも併設していて、本のディスプレイもオシャレで本を横に寝かせて、お客がすぐに手にとって見やすいようになっている。

 サンフランシスコ文学の引き金となったのがビートニクという詩人のムーブメント。1914年から29年までの第一次大戦からその後の反戦運動、ドラッグ、ヒッピー、自由、といった発想から広まっていった。その中でもジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズといった詩人が特に有名で、ビート・ジェネレーションと呼ばれている。シティライツ・ブックスストアの近くに「ビートミュージアム」という小さな美術館があり、当時の詩人についての展示や本の販売もしている。美術館の2階に上がっていくと当時のサイケな音楽とともに詩人の経歴や写真が貼ってあり、サイケな時代の世界に吸い込まれそうになる。ビート・ジェネレーションに影響を与えたのは反戦運動だけでなく、ちょうど宣教に来ていた日本の曹洞宗(禅宗)は大きな影響を与えていて、ゲーリー・スナイダーの初めの奥さんも日本人で、禅宗に改宗し、一人で日本に来て京都の寺巡りや富士山に登った詩を書いている。今でも幾つか、zen道場があり、瞑想やお祈りをしている人達がいる。9・11過ぎてから、クリスチャンに疲れた人が禅宗に改宗したり、zen道場に通ったりする人がまた増えた印象がある。ハリウッドの映画で見てかっこいいと思ったのが、オープンマイク。主にイタリア人街のバーなどで夜やっているが、誰でもジャズバンドに合わせて詩を唄うことが出来る。場所によっては反体制のところもあったり、愛の唄を唄ったりするところもある。なんか、真面目に詩の朗読をするより、音楽に合わせてバーで詩を読むのが、かっこいいと思った。オープンマイクはビート・ジェネレーションの頃から脈々と続いている。


 アートの街サンフランシスコも、詩人の街が最初だったと言っても過言でなく、今でもシティライツやグリーンアップルなどの本屋で詩集のコーナーを持っている。州立大や芸大にもライティングの学科があり、ベイエリア出身、カリフォルニア州出身の作家が生まれている。シティライツブックストアに行った時、サンフランシスコをテーマにした本、サンフランシスコ出身の作家の本が1階の入った新刊本のコーナーに並んでいて、どれもこれも欲しくなった。気になったのは日系人の書いた本。アメリカ生まれの彼、彼女達が日本をどういう目線で描くのか気になった。Ruth Ozekiさんという人の本をチラ見したら、東京の女子高生がいじめに遭っていて祖母の過去を通して東日本の震災のトラウマを癒していくという内容で、アメリカにいながらにして、日本の震災テーマの本に出会えると思わなかったのでびっくりした。結局なんか生々しい気がして、Japantownというミステリーを買ってしまった。Japantownという本はタイトルだけで、(なぜジャパンタウンで事件が起こるのか?そんなに危険なところでもないのに?)と思って、興味を持った。まだ完読していないが、Japantownで殺人があったという話だが、購入の決め手は単純に主人公のアメリカ人が日本生まれで阪神ファンで阪神のキャップをかぶっているというところ。ベイエリア出身の作家と言ってもサンフランシスコだけでなく、いろんな民族や国をテーマにした内容の本があり、ペーパーバックの表紙のデザインもカラフルで、英語の本でも興味を持って読める本がたくさんあった。ベイエリア文学はサンフランシスコの文化が多様で他民族なことがわかる媒体の一つだ。

11/23/2017

観光客を装った彫刻

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観光客を装った彫刻

 美術館や街中の壁画だけでなく、市内には至る所に彫刻がある。
 市のプロジェクトなどで作られた巨大な彫刻が海沿いや野球場や公園に並んでいて、人々は当たり前のようにその間を歩き回る。ダウンタウンのホテルの前に銅の彫刻があり、女性がトランクを横に置いて休んでいる、個人所有の彫刻もある。結構リアルで、写真を撮らせてもらったことがある。
 そして自分も同じように思案気な顔をして、横に座らしてもらったりしていた。結構サンフランシスコの人はそう言ったユーモアのセンスもあり、カリフォルニアならではなのか、明るくて元気が出るアート作品が多かった。
 彫刻ではないが、彫刻ぽく銀色に色を塗ってじっとしていて、お客さんが見るとたまにロボットのように動いてパフォーマンスをしている人たちもいる。古めかしい服の上から銀の絵の具を塗り、銀色の彫刻を演じている。自己流の男性もいれば、芸大の演劇科で腕試しのバイトをしている風の人たちもいる。
 他には「ブッシュマン」という体に草をつけて手にもヤシの葉を持って、フィッシャーマンズワーフのあたりで、人を驚かせている人がいる。横から見たらバレバレで観光客に「わかってるで」とか「変なおじさん」と引かれているが、近隣の人には親しみも込めて「ブッシュマン」の愛称で呼ばれている。気の毒がってチップを入れて行く人もいる。毎日決まったようにいるので、いなけりゃいないで、(今日はどうしたんだろう?)と思ったりする。

 最近、市庁舎などに日本でも馴染みになった、光のアートもされるようになった。建物や彫刻そのものに映像を投影したり、電灯をつけて彫刻を際立たせている。

11/21/2017

壁画アート (mural)

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壁画アート (mural) 

サンフランシスコといえば、ビクトリアンハウスやケーブルカーやクラムチャウダーとか色々名物があるが、壁画がやたらと多い。それを撮った本もたくさん出ている。壁画は公共のビル、アパートのビルの壁、店舗などの巨大なものから、個人の家の前といった小さいものまである。私はサンフランシスコに来るまで mural (ミューラル=壁画)という言葉を知らなかったが、友達が壁画を題材に英語のエッセイを書かないといけない、と言っていたのをきっかけに一緒に見に言って知ることになる。芸大の美術学科でも何年か前から壁画の授業があって、そこここに学生の描いた絵もある。サンフランシスコの街中で壁画は見られるが、やはりミッション地区は一番多いと思う。NPOで壁画アーチストが運営するプレシタアイズ (Precita Eyes Mural Arts & Visitor Center) という場所がミッション地区にあり、観光客相手に壁画を案内したり、壁画の注文を請け負ったりしていて、壁画アーチストと街を結ぶ働きをしている。まだまだ見てない壁画があり、探して回るのも面白い。

 一番のお気に入りは、San Francisco Art Instituteという芸大の中と、コイトタワーという火の見櫓の1階にある、ディエゴ・リベラの壁画。歴史があり、テンペラという絵の具で書かれている。構図も内容もストーリー性があり、カリフォルニアや、ベイエリア周辺の歴史が描かれている。建物のくぼみや窓を利用して立体的に描かれているのも彼ならではのテクニックだ。


 それに反して、無名のアーチストや学生が描いているものも沢山ある。ミッション地区は以前は危ないところとされていて、路地裏に描いてあるグラフィティを消して、若いアーチストが壁画を描いているところがいくつかある。その中でも有名なのはミッション通り沿いの17と18ストリートの間のクラリオン アレー (Clarion Alley)という路地。最近は観光客にも知れ渡ってアジア人からヨーローッパ人の観光客も見かけた。そこに住んでいる住民でアーチストの人がいて、路地側に面しているガレージをアトリエにして、自分の作品を飾ったり、ポストカードを売ったりしていた。彼らはもう何十年もそこに住んでいるようだが、「ミッション地区の地価が上がってしまって、引っ越しもできない。今は月2000ドルでは済まないよ。」と言っていたので、びっくりした。私がシェアーして住んでいた頃2001年ぐらいの頃は、月3−4万のアパートもあった。そこの壁画はどちらかというとポップアートというか現代アート的な感じのが多かった。そこを取り仕切っている男性がいて、話を聞いてみた。「プレシタアイズと知り合いなのか?」、と。「プレシタアイズに習った部分はあるが、自分達でやっている。」と言っていた。男性一人で描いていたが、側に葉っぱを吸っている友人らしいごつい黒人男性がいて、ちょっと長話はためらわれた。多分プロジェクトがあって、他のアーチストも募って、古いのを消して新しいのを描いているので、いつ来ても違うのが見れる。そうやって、観光客がひっきりなしに来ることで危ない路地も安全な場所になる。日本では逆に壁画が悪者扱いされて、絵の内容によっては子供の親が教育委員会などに通報することもある。サンフランシスコでは逆で、アートが街中にあることで安全な社会を作ろうとしている。学校の中にも子供たちが絵を描いているところもあり、共働きやシングルペアレントの子供が壁画を描いたりと、非行を防ぐプロジェクトもある。

11/16/2017

カメラ屋さん

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カメラ屋さん



 2000年に奨学金で留学していた時は、写真学科に所属していた。それまでも95’年ぐらいから自分で一眼レフを勉強して、旅行してはコンテストに送ったりしていた。当時は旅行写真家に憧れていた。まだフィルムカメラ全盛期だ。
最初は学校で教えてもらったメインキャンパスの近くのAdolf Gasserに行っていた。そこの人とも知り合いになって、よく行き来していた。初めて、そこで買い物した時覚えているのが、
Do you ring it? という言葉。当時は意味がわからず適当に答えていたが、住んでいくうちに、リング(鳴らす)という言葉がクレジットカードを使う、という言葉だとわかった。アメリカではカードより、チェックが多かったが、クレジット機能付きデビットカードを使う時は、「イエス」、と返事していた。Ringという言葉を聞くたびにその店で最初に言われたことを思い出す。

 いつからか忘れたが、街を知るうちに、アジア系のカメラ屋があることを知った。学校では自分で現像したりしていたが、趣味で撮る写真もあったりして、学校の課題以外では現像、プリントをやってもらっていた。

 中国系の現像屋さん。マーケットストリート沿いにあって、結構大きくてカメラも売って、現像もやっていた。そこのいいところはとにかく現像が早い。それからフィルムの本数が多いと負けてくれたりしていた。中国系の人でも無愛想な店員とかは中華街行くとあるが、(大抵は英語が出来ないから中国語を話せない人を嫌うせいだ)そこの店員さんは愛想も良くて親切だった。リーボックか何かの隣で、分かりやすいところにあったので、よく行っていた。大抵同じ店員さんに会うと、「ハーイ!」と挨拶していた。

 韓国系の現像屋さん。ポークストリート沿いにあり、韓国人の落ち着いた感じのおじさんが一人でやっていた。そこも販売も現像もしていて、おまけしてくれたりしていた。一人なので、お客がいない時は色々と教えてくれていて、何か優しいお父さんのような感じで、そこもポークストリートに行く時はよく寄っていた。少し韓国語なまりの英語を話していた。

 同じ通りにはイタリア系の現像屋さんもいた。そこも行ったことが何回かある。道の角に大工道具やがあり、そこの隣にあった記憶がある。向かいが良く行く中国系のスーパーで好きなエリアだった。イタリア系のゲイの店員さんだったか、おしゃべりが好きでたわいもない話をしていたのを覚えている。


今はスマホ時代。フィルムカメラ自体使う人があまりいなくなってしまった。私が行っていたこれらの現像屋は閉じてしまっているようだが、写真を勉強している芸大生も多いし、プロの写真家も多い街なので、幾つか他の店はレンタル現像所兼カメラ屋として頑張っているようだ。

11/15/2017

ノブヒルはスノブヒル

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ノブヒルはスノブヒル


 サンフランシスコで「下町」というと坂の下にあるからdowntown、坂の上の方にあるのはuptown と言って高級住宅街になる。一概に、高低差だけで言えない地区もあるが、ケーブルカー乗り場の裏手から市庁舎にかけてはテンダーロイン(まさに肉のほとばしる危険なところという意味合い)と呼ばれる地区で、柵がしてある公園もそういうエリアにある。一概に危ないとは言えないが、黒人やマイノリティーの貧困層が住んでいて、ドラッグを売り買いしている人もいる。

 ポークストリートはそれらの通りと交わって、フィッシャーマンズ・ワーフに上がっていく通り。いろいろな店が並んでいる通りだが、上がっていくに従って、店がおしゃれになっていくのが目に見えてわかる。店の物価も一概には言えないが高くなっていく。アパートの家賃も場所によって変わっていくため、家探しは、地区の物価と安全性と合わせて探していた。留学していた学校がdowntownにあったため、いわゆる市の中心になるだけ近いところで安いところを探していたが、離れた州立大辺りの家賃も安いので、そこでハウスシェアしてダウンタウンまで通っている生徒も結構いた。

 私は何回か引越しをして、結局家賃の安いテンダーロインエリアのアパートに住んでいたが、買い物をするのはCalifornia 通りあたりにあるアメリカ系や中国系のスーパーを利用していた。空いている時間を見つけて週1程度でまとめ買いして、後は同居していた連れが安く食べ物を仕入れてきてくれていた。

 ある日、気が向いて、それを通り越したちょっとおしゃれな小さなスーパーに入ってみた。オーガニック製品などセレクトされた品があって良かった気がする。なぜか精肉のところに行って値段を見ていて、いつも買っているスーパーの2、3倍の値段はしたのでびっくりした顔をして立っていた。そこにいた店員の顔を見ると、「お前には買えないだろう。」的な顔で笑っていた。私はなぜか恥ずかしくなって、その場を離れてしまった。くそ、いつかは私も坂の上側で気軽に買い物が出来るようになるから。。と少し悔しい気持ちが湧いた。

 後で、同居人に聞くと、彼のいつも買っている肉は安くて硬い肉でそういうところの肉は柔らかいそうだ。やっぱり、品質で値段や売る場所が違うようだ。

  よく下町の人間は気さくで、高級なエリアに行くと人もツンとしている、みたいなことがあるが、California 通り、Broadway 通りのエリアはNob Hill (ノブ ヒル)というが通称snob (スノブ)(気取った)をかけたSnob Hill(スノブ ヒル)と言われているそうだ。他の下町の人もそう思っているのだろう。Marina(ヨットハーバー)にほど近いテレビドラマにもなったPacific Heights (パシフィック ハイツ、通称パックハイツ)に3ブロックほどの商店街があるが、すごく落ち着いて、大人の感じのする、店やブティックが並んでいたが、ちょっと一人では入りづらい気取った雰囲気があったのを覚えている。

 1度行ったきりだが、また行ってマッタリしたい、と常に憧れの場所だった。


 サンフランシスコの郊外まで行ったわけではないが、最近では貧困地区だったMission地区も高級レストランやブテックやコンドミニアムが並んでいる。古い店も残っていて、いろんな人が歩いている。日本のガイドブックにもオシャレスポットとして紹介しているほどで、以前友人に、「ドラッグの売り買いをしているからミッションは行かない方がいいよ。」と言われたのが嘘のようだ。地価の高騰で店を閉めてベイエリアの郊外の市に移住してしまったオーナーも多いため、ミッションはラテン系の貧困地区としての認識が薄くなっているが、ラテン系住民は、ミッション通り沿いに南下していくか、他の市に移っている人が多いようだった。

 サンフランシスコのあちこちの地域で元あった安い店がなくなってしまって、多くの人が「サンフランシスコは高くて住めない。」と言っていた。残っているのはレントコントロールで昔の家賃で住んでいる人か、仕事や事業がうまくいっている人か、シェアハウスをしている学生や観光客などになる。

サンフランシスコの 公園の柵

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公園の柵


最初に雨宿りをして柵をしている店の中から怒鳴られた、ということを書いたが、アパートや店の前に鉄格子があるところはいわゆる「危険地帯」の意味合いがあるとしたら、公園も同じように見分けられる。サンフランシスコには大小様々な公園があって、芝生があって、気楽に寝転がったり、犬の散歩をしている公園があると思えば、一区画の小さな土地に遊具があって、子供を遊ばせるようになっているが、柵をしてあって、あまり人がいない公園もある。公園には名前も付いてあり、柵のデザインもバラの形だったり綺麗なのに場所があまりよくないため、人が寄り付かないのだ。結局そういうエリアに住んでいる子供は学校や、もっと安全な地区の公園で遊ばせたり、海や人の多いショッピングエリアにいることがある。鉄格子がある、ということは夜になったら危ないので錠がされてしまうのだ。基本的にサンフランシスコの夜は涼しいので外にはいないが、鍵がかけられて使われない公園ってなんだか、持て余して切ない気がする。多分下町の貧困をなくさないとこの状況は無くならないんだと思う。



8/11/2017

サンフランシスコの建築 

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 サンフランシスコの建築はビクトリアンハウスで有名だが、坂が多いので2階に見えるところも地下1階だったり2階が3階だったりする家が多い。
デザイン的には綺麗だが、木造なので、中で人が歩くと音が響く。
特にアメリカでは土足なので靴の音がドンドン、コツコツと鳴る。
不便なのは、古いホテルや民家では階段に絨毯が敷き詰められているが、トランクや家具を持って上がるのにタイヤが滑りにくいし、階段を上がる時、段差の間が狭くて、物を持ち上げづらい。
ただ、ビクトリアンハウスの好きなところは、道路側から一見して見えない、小さな階段と裏庭。
プチ菜園を作ったりしている人もいれば、シェアーメイトと飲んだりする交流スペースにしている人もいる。
屋上に日光浴のためのベッド式簡易家具や、ハンモックでくつろいだりしている人もいて、そんなのんびりした暮らしに憧れる。
地下1階を兼ねる1階部分をランドリールームや物置に使っていたり、ガレージにしたり、持ち主の部屋にして上の階を人に貸している人もいる。
デザインによっては、一つの建物にドアが二つあって、二つのうちに分かれているところもある。
その場合は、意外と木の壁から音が漏れるので、家具を置いたりして防音を図っているが、気にしないで、お隣さんと気兼ねなく付き合っているようだ。私は、ものづくりを考える時に気が散ったりする時は、学校や公立の図書館に行ったり、公園に行ったりして勉強していた。

ビクトリアンハウスの他にはレンガ造りの重厚な建物。
主に、デザイン事務所などに使われていて、ロフトやメザインという中二階があったりする。
人が住む、というより、アトリエや、事務所、工場に使われることが多い。

最近は鉄骨やアルミのモダンな建築も増えている。
もちろん新しいので、かなり家賃や販売価格は高い。
どんな人が住むのか知る由も無いが、ITやデザイン系で成功している人や、そこそこ給料をもらっている人がシェアーして住んでいたりする。サンフランシスコは前以上の貧富の差があり、
住め無い人は、違う市や州に移ってしまう。
逆に、そういうモダン建築を市とコラボして低所得者のアパートにする建築家もいる。
おしゃれで住んでみたいが、逆に低所得者としての証明がいるので、留学生は住め無い。だいたい留学生としてビザを得るためには一定の財政証明書がいるので、もともと財政がある家庭の人が来ているか、国費や奨学金できている場合が多いので、そういう低所得者アパートとは縁がないが、ある程度、皆アパートや家をシェアーして住んでいるようだ。

特徴的なのは、やはりチャイナタウン、などの移民の建物。
一見ビクトリア調なのだが、中国風の屋根の破風や瓦などが混ざっていて、米中折衷といったところか。それに、ランタンなどの、赤い飾りがぶら下がっていてカラフル。
華僑の学校の入り口も少し、アジア風の学校の感じがした
 
 実は昔はチャイナタウンはサンフランシスコ湾の南側にあった。アジア系移民が虐げられて不便な場所に住んでアヘン窟があったという。それが歴史を経て、今の観光地のチャイナタウンの場所に移ったが中国系移民は、今も増え続け、クレメンテ通りやアービンング通りなどに、第二、第三のチャイナタウンがある。そちらの方はのちに建てられたビクトリアンハウスの住宅地で、一般的な家に住んでいる。ダウンタウンから遠いし、州立大もあるので家賃が安いので、そちらに移民が多く住んでいるとされている。

サンフランシスコならではだが、ゲイの方々が住んでいる住居には彼らのプライドで、レインボーカラーの旗を窓から出していたりする。
それによっての差別もあるが、比較的、人種、性別、宗教などの差別が肝要なのがサンフランシスコのいいところだと思う。

以前、ロンドンで、火災が起きて、ビル全体が燃えた。
サンフランシスコでは、耐震補強はしているが、木造の家が多いので、家事の件数は多いと思う。

そのため、消防車がしょっちゅう街を走っている燃えにくい構造にした方がいいと思うが、ビクトリアンハウスのデザインをそのままに保つのも重要なことだし、この街の美しさを保つ役割の一つだと思う。

7/16/2017

サンフランシスコのホームレス

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サンフランシスコのホームレス

1 アカデミー芸大の友達ホームレス

 Academy of Art Universityという芸大には市内のあちこちに離れて、キャンパスや、寮がある。学校が空いている不動産を次々と買って、いろんな施設にリフォームして使うため、一つ一つの施設が離れているのだ。キャンパスとそれぞれの寮などをつなぐために、学校のバスが市内を走って生徒やスタッフを乗せて回っている。
私が勉強していた時、住んでいた寮から近い美術学科のキャンパスの近くのカフェの前で寝ていたホームレスがいた。
カフェの人もそこに集う美大生たちも、一緒にコーヒを飲んで、話していた。生徒たちには何の偏見もなく、普通に「いつもそこにいるおじさん」という感じで接している感じだった。
ある生徒は内緒で寮に入れて、ドローィングの宿題に彼を描いてしばらく同居させていた。
彼の名前は忘れてしまったが、結構その辺りでは知られていた。
ある時、学校に寮にホームレスがいることがバレてしまい、品位を損なうと追い出させてしまった。
そのホームレスは、結局いつものカフェの前にしばらく寝泊まりしていたが、私がサンフランシスコを離れている間にいなくなっていた。
彼は病院でも入ったのか?のたれ死んでしまったのか?
どこかのホームレス用の住居に入ったのか?

その辺りを通ると、たまに彼のことを思い出す。


2 ホームレスの日々の暮らし

ホームレスの暮らしと言っても、千差万別。
低所得者層用の簡易宿泊所にいて、パウエル ストリートで物乞いする人もいれば、ミッション地区で引越しした人の荷物のいらないものを道端で売ったりする人もいる。
高速道路の高架下にダンボールで家を作って寝ている人もいれば、テントもダンボールも持たない。その辺にごろ寝の人も。
せっかく恵んでもらっても大半の人はドラッグに使ってしまう。
何人かの人は、最近では日本でも見るようになった、ビックイシューを売って生計を立てている。中国人の中には、ホームレスでなくても、生活のため、あちこちのゴミ箱をあさって缶を集める人もいる。以前、通っていた芸大のキャンパス内のゴミ箱まで漁っていたのでびっくりしたことがある。そこは景色のいいところにキャンパスがあるので、観光客もカフェに入ってこれるし、セキュリティーが甘いので、黙認されているようだった。
 空き缶はCala Foodsのスーパーの外にある機械で、コインに変えられるので、集めて持っていく人がいる。ホームレス対策だけでなく、エコで、市民の経済に優しいのでいいと思うが、一度捨てたものをまた拾うのは、やはり清潔ではないので、よっぽど勇気があるか、追い詰められた人でないとできないと思う。

よくたむろしているのは、市庁舎の近くの図書館の裏。
図書館も黙認。
階段状のデザインになっていて、その階段に横たわって寝る。
荷物はスーパーのカートを取ってきて、全財産を入れている。
昼間は、図書館の隅の椅子で本を読んで時間を潰す。
トイレで顔や体を洗うので張り紙がしてある。「ここで体を洗わないでください」
当たり前やろと思うがサンフランシスコではバスターミナルの洗面台でも体を洗っている人を見てしまった。 
それで、市は苦肉の策で、ホームレスが使っていい、ホームレス用のシャワールームを用意した。
行ったことはないが、聞くところによると、日本のビーチにあるシャワー室のような感じらしい。
かなり臭いらしい。

ホームレスだからといって、教養をつけるのはいいことだと思う。
NPOがホームレスに絵を教えたり、一緒に音楽を聴くところもある。
食べ物は、クリスチャン系のフードキッチン、ただで缶詰などを配る日曜礼拝。
並んでいたら、飢えることはない。人によっては何周も並ぶ人もいるが誰も咎めない。

芸大で有名になったホームレスがいた。
フォーマットが変わってしまったので、今のコンピューターではお見せできないが、専門のところではフォーマットを変えてくれたら見れるかもしれない。ある、ホームレスが、San Francisco Art Institute に住んでいて、そこに落ちていた雑誌の上から毎ページ漏らさずドローィングを埋めていた。クレヨン、ペン。キャンパスで拾ったのだろうか?
結構良く出来ている。
結局キャンパスで亡くなったらしいが、学校は彼の意志を継いで、 CD-R化して、生徒にセミナーで彼の話をした。
私もまだそのアーチストのCD-Rを持っている。
学校も当時知っていてキャンパスから追い出さなかったことが、彼の迷作を生んだのだ。

まさにアールブリュット。



3 ダウンタウンの新条例

 ホームレスはダウンタウンのそこらじゅうにいる。
市は古いホテルを低所得者やホームレス用のアパートにしているが、リーマンショック後、目に見えてホームレスが増えてきた。特に女性や中国系などのマイノリティーや若い母子やアーチスト崩れの人は以前見かけなかった人達を見かけるようになった。
観光立国として成功したサンフランシスコにとって、ホームレスの存在はあまり気持ちのいいものではない。ましてや、麻薬常習者が誰彼なしに麻薬を買うお金をせびるのは、あまり気分のいいものではない。それでもいろんなタイプのNPOが彼らを援助しようとしている。主だったのは、食糧支援のスープキッチン、食べ物をそのまま寄付する教会系の団体や、元ホテルをモダンにリフォームした、ホームレス用住宅。立ち直りや趣味の支援のアート系の団体。
そこで、新しく考えたのが、海沿いのエリアにテントをたくさん作って、テント村を作ること。
カラフルなテントに炊き出し。シャワー。
申し分ないとまでは言えないが、一応の施設は揃っている。
だが、当事者にしてみたら、アパートの方が居心地がいいし、自分のテリトリーやつながりもある。海沿いだから朝晩は寒いし、一箇所に集められても逆に孤独感に陥る、というのが当事者の意見だろう。

たくさんのホームレスが入居を拒んでいて、市も手をこまねいている状態だ。

7/13/2017

ホテルのオーナー

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ホテルのオーナー

 なぜでしょうねぇ?人懐っこいのか?バカ真面目だからか?笑 場所にもよりますが、自分はレジデンスホテルのオーナーさんとよく仲良くなっていました。ある、レジデンスクラブでは、ゲイのオーナーさんがいて、(名前覚えていないので、仮にスティーブとする)私が学生だというと、月払いの交渉に応じてくれ、会う度に愛想よく挨拶してくれた。大抵フロントにはアルバイトのスタッフがいて、不愛想な人もいたが、そこのレジデンスクラブのスタッフは大抵親切で、スティーブは特に声がでかく、大きなリアクションで話をしてくれた。クリスマスにはスタッフと同筆でクリスマスカードをくれた。
 ある時、学校の課題で、大きなスケッチブックを抱えて出かけようとしたら、ステーブが、
「画板持ってるけど 芸大生?」
私、”yes.” ”I study photography.” (はい。私は写真を勉強しています。)
「ちょうど良かった。帰ってからでいいけど、ホテルの看板塗り替えたいんだけど、ぺインターを探していたところ。後で、詳しく話したいんだけど、ok?」
 私。宿題いっぱいあるし。。と考える。だが、バイト代出るんだったら、美味しい話だ。当時一緒に住んでいた、ツレが得意そうなので、
「ルームメートに相談してみます。」と言って、その場は学校に向かった。
 
 学校から帰ってきて、ルームメートに相談したら、仕事を送らせてやってくれるというので、スケッチをして、大きい梯子を借りて、看板を塗ってもらった。綺麗にホテルの名前が白で浮かび上がった。
 数年たってオーナーが変わり、看板を見たら、名前は一緒だがせっかく描いてもらった看板が変わっていた。付近を通りかかった時に、見たがちょっと残念な気がした。でもその時にしたプチバイトは、自分の中のいい思い出だ。
 

 のちに泊まった「ホテル ミラベル」のオーナーも一人部屋に2人で入ることを許してくれたり、1週間割引をしてくれたり、すごく親切にしてくれた。ホテルの受付は2階だった。二階に上がるまでに、白黒の日本のお寺の写真が飾ってありました。後でオーナーに聞いたら、州立大で日本語と日本文化について学んでいたそうだ。それで日本人の私に興味を持って親切にしてくれたのかもしれない。最後に会った時、近くの日本食レストランでご馳走してくれた。日本食とは程遠い料理だったが、その気持ちが嬉しかった。「ミラベル」というのは花の名前。それをモチーフにホテルのデザインをしてくれ、と頼まれたが、閉館してしまった今実現はしていない。オーナーとも音信不通になってしまった。

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